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エル・エスコリアル修道院(El Monasterio de El Escorial)

マドリード市からわずか50キロ、グアダラマ山脈(Sierra de Guadarramaの中心、アバントス山(Monte Abantos)の斜面に位置するサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル(San Lorenzo de El Escorial)は、この一帯で最も興味深い文化と観光の町です。その中心となっているのが、1984年にユネスコの世界遺産に登録された サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院王室御用邸Monasterio y Real Sitio de San Lorenzo de El Escorialです。

父カルロス5世(Carlos V)の死への追悼と、スペインにおけるハプスブルク(アウストリア)家の座を揺るぎないものにしようとの意図から、フェリペ2世(Felipe II)が修道院の建設を命じました。修道院建設によって国王は、王家一族を永遠に偲ぶ霊廟を設置し、フランスとのサン・カンタンの戦いで、聖ロレンソに捧げられた教会が破壊されたことへの償いを試みたのです。

1563年4月23日、フアン・バウティスタ・デ・トレド(Juan Bautista de Toledo)の監督の下、修道院の建設が始まります。デ・トレドが1567年に亡くなった後に工事を引き継いだフアン・デ・エレラ(Juan de Herreraは、「エレラ」様式の名で知られる独特の手法で修道院を造り上げます。この様式は、建物を見る人の目を惑わせるような過度の装飾を一切排除し、線が主役を演ずるものです。

 

アバントス山に向うファサードは全長207m、33,000㎡を占める四角い建物は、全体として焼き網を逆さまにした形をしています。訪れる人々は威厳に満ちた正面ファサードに迎えられ、そこから「王たちの中庭(Patio de los Reyes)」へと導かれます。中庭の名は、教会正門を飾るユダの王たちの像に由来します。

修道院建築全体の中でも、教会は見逃すことができないものの一つです。四角い平面にバチカンの聖ピエトロ教会に似せた丸屋根を持つこの教会には、合わせて43の祭壇と礼拝堂があります。教会の中では王室小礼拝堂と王室葬儀, 跪いて祈るカルロス5世家族の群像とフェリペ2世家族の群像は注目に値します。教会の王室礼拝堂の下は王室霊廟になっており、ハプスブルク家及びブルボン家の王たちが眠る26の黒大理石の棺の他、親王たちの墓、皇太子や親王、国王に即位した子を持たない王妃らの墓があります。

教会内陣の後ろはハプスブルク家の宮殿Palacio de los Austriasになっています。宮殿の中では、スペイン王国が勝利を納めた主要な戦いの場面を描いたフレスコ画で飾られる「戦いの間(Sala de Batallas)」が特筆に価します。近くにはフェリペ2世とイサベル・クララ・エウヘニア(Isabel Clara Eugenia)王女の私室があります。

修道院の地下、「丸天井の階」にある建築博物館(Museo de Arquitecturaには、工事に使われた図面や工具が展示されています。また美術館にはエル・グレコ、スルバラン、リベラ、ティントレット、ティツィアーノ、ルーベンス、ヴェロネーゼの作品が納められています。一方、図書館も見逃せません。ここにはアルフォンソ10世(Alfonso X)「賢王」の「サンタ・マリア賛歌集」、聖女テレサ・デ・ヘスス(Santa Teresa de Jesús)の作品数点、モサラベの写本、黄金の文字で書かれた「アウレオ(黄金)の写本」等があります。

 

サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルの町には国土回復戦争(レコンキスタ)時代以前の古い遺跡が残っているものの、町の起源はキリスト教徒がこの地域を再征服した11世紀と、続く12世紀のメセタ再植民の時代に溯ります。町はもともと農業と牧畜の小さな村で、何世紀にもわたり孤立していました。1561年、マドリードへの宮廷の設置に伴い、フェリペ2世はこの辺りの地所をいくつも購入し、サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアル修道院の建設を命じます。

こうして、首都から遠く離れたこの村は市となります。修道院建設の労働者を迎えて商業や手工業が盛んになり、人口が増え、新しい市庁舎や病院、それに国王とともに移動する貴族らの邸宅が建設されます。2世紀の後、カルロス3世(Carlos III)は新しい市政開始と都市建設計画に関する勅令を発布、フアン・デ・エステバン(Juan de Esteban)とフアン・デ・ビジャヌエバ(Juan de Villanueva)による建設が実現します。

19世紀初頭になると、王家が公邸としてサン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルを用いなくなります。また同時期の1808年にフランスの侵入が始まると、町は衰退に向かいます。町が商業と文化的活動を回復するのは、鉄道建設と王室財産の売却が行われた19世紀半ばのことで、王室財産を買い取った新興ブルジョワたちはここに夏場の避暑用のホテルや別荘を建てました。

サン・ロレンソ・デ・エル・エスコリアルをマドリード県西部の中核都市に変えたのはアルフォンソ13世(Alfonso XIII)です。町にはマリア・クリスティーナ大学(Universidad María Cristina)が創設され〔現在はコンプルテンセ大学(Universidad Complutense)に所属するエル・エスコリアル・マリア・クリスティーナ王立大学センター(Real Centro Universitario El Escorial-María Cristina〕、またインマクラーダ・コンセプシオン学校やカルメリータス・デ・ラ・カリダー学校も作られるなど、今日もマドリード州の主要な学術都市となっています。特に大学教育の面では、1988年から行われているコンプルテンセ大学夏期講座が有名で、毎年スペイン各地や外国から何千人もの学生が集まります。

 

修道院以外では、と言っても修道院と切り離しがたく結び付いており、修道院のファサードとフロリダブランカ通り(Calle Floridablanca)の間に位置する、執務館(Casas de Oficios)や親王たちの住い(Casa de Infantes、王家の人々が使う馬や馬車を入れる「王の馬車庫(Cocheras del rey)」もまた、一見の価値があります。

このほか、フアン・デ・ビジャヌエバが後の国王カルロス4世(Carlos IV)のために建てた皇太子の家(Casita del Príncipe、その兄が住んだ「親王の家(Casita del Infante)」、そして、自然の中で宮廷のコンサートや会合に用いられた狩猟小屋が特筆に価します。

その他、町にはカルロス3世の王立円形競技場(Real Coliseo de Carlos IIIがありますが、これはカルロス3世がフランス人建築家のハイメ・マルケ(Jaime Marquet)に依頼したもので、今日では州の重要な文化センターの一つとなっています。

旧市街から少し離れ、ラ・エレリア(La Herrería)の名で知られる場所の近くには、ビルヘン・デ・グラシア礼拝堂(Ermita de la Virgen de Graciaがあります。松林に囲まれたこの礼拝堂は、毎年たくさんの人が集まる村祭りの舞台にもなっています。礼拝堂の近くには岩を使って作った「フェリペ2世の椅子(Silla de Felipe IIがありますが、国王はここに座って修道院建設の進み具合を見届けたといわれます。

エル・エスコリアルから8kmに位置するグアダラマ山中には、ベネディクト会「戦没者の谷」聖十字修道院Abadía Benedictina de la Santa Cruz del Valle de Cuelgamurosがあります。40,000㎡の平地には修道院のほか、図書館、宿泊施設、岩に掘られた地下聖堂が立ち並び、高さ150 mにおよぶ巨大な十字架へは、山に隠れたケーブルカーで上ることができます。

地下聖堂内部にはホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベラ(José Antonio Primo de Rivera)の墓、市民戦争で殺された4万人の兵士の墓(非公開)があります。ここにはフランシスコ・フランコ(Francisco Franco)の墓も収容されていましたが、2019年に遺体が掘り起こされ、戦没者の谷からエル・パルドのミンゴルビオ墓地に移されました。

食に関しては、豊かな自然と恵まれた環境から生まれる、評判の高いグアダラマ山脈の肉があります。多くのレストランでは、人気の素材として使用されています。

ガストロノミー界の新星としては、2012年にオープンし地元の食材をベースにした創作料理を提供するレストラン、Montiaが挙げられます。

 

  • : A-6、AP-6、M-600で約45分。
  • バス:モンクロア・ターミナルから約50分。
  • 電車: アトーチャ駅から近郊線で約60分、チャマルティン駅からは約45分。 非常に楽しい選択肢はフェリペ2世列車(Tren de Felipe II。1960年代の機関車に牽引される1940年代の列車でエル・エスコリアルへ向かいます。 

 

さらに詳しい情報:国指定遺産 - エル・エスコリアル修道院

 

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